その後、作品は手を中心に身体で鉄の板をヒラヒラと曲げる方法で制作するようになっていった。火を 使わずに鉄の板を曲げて制作をしている私には、おもっている形が素材の“硬さ”によってズレて出来上が ることが付いてまわる。火を使わないことで鉄に手で触れられること、おもった形からズレることは、制 作の中で重要な要素となってきた。
そういった制作の中で訪れるかのようなズレや、触れた痕跡を私は修正しながらも引き受け、また受け 流して作品が出来上がる。ズレ、錆は訪れるものと言えるのかもしれない。それら訪れるものは愛着を呼 び寄せはしないだろうか。
いま、同時代の表現は善意の中だけで鑑賞されるものではなく、“いつかどこか”で悪意らしいものにも 鑑賞され続けていくことが今までよりも簡単になっている気がする。回想されることで、なにか別のちか らを受けても潰れることのない、正解も不正解も決めないようなしなやかな態度、例えば愛着のようなも のが生き生きとした現在をつくってくれはしないだろうか。
日常的に流れている音は、楽譜を覚えるために同じところばかり繰り返す。ふとたまにメロディを持って耳に届く。生活の中で薄らと響いているアンビエント(環境的)な音のひとつに過ぎなかった。
鉄はあらゆるアンビエントを引き受けて、有機的な変化を繰り返す。それは車両から眺める景色の様に、目の前をかすめて流れていく。
どうしようもなさの中で、何ができるのだろうか。 鉄に向かっているとそういう気持ちになる。 なにか出来たのだろうか。
生活の中でも、言葉にならないような、まずしさを感じる。愛憎のような手触りに先立って、感覚的に迫ってくる。それは、自省的で、だらしなく情けのない自身の言葉で感覚される。まずしさは何度でも、目の前に立ち、あらわれる。
まずしさに身を寄せること、身寄りになること。 いま、ここで、それをいとおしく思うこと。どうしようもないまずしさを、いとおしさが強引に愛着に変えていく。それはいま、いる場所から逃れていく撤退戦のようなものかもしれない。
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